クリスマス・テロル invisible×inventor(佐藤友哉著)

ジャンル:ミステリ
 S-neryの話をして(『フリッカー式』)、桑島法子の話をして(『エナメルを塗った魂の比重』)、青春の話をして(『水没ピアノ』)、私生活の話をしたら(「世界の終わり」)、あとは小説の話しか残っていないだろう。
 そんなわけで、友哉たんの小説論小説である。
 確認しておこう。佐藤友哉は頭がいい。佐藤友哉はセンスがいい。佐藤友哉は本質を見通す目を持っている。なにせ彼はS-neryのラジオのリスナーだったのだぜ。そうでないはずがあろうか。
 だから彼は偉大な作家なのであり、そのファンは彼を西尾や舞城と同列に語ろうとする輩に激しい怒りを覚える事を禁じえないのだ。
 その友哉たんが小説、それを書き、読む事を主題として書いたならば、行き詰った小説形式自体を追い詰める、そんな小説にならなければならないはずだ。
 その小説は、それ自体小説として洗練された構成を持っていなければならない。それは何よりの従われた形式への批評となるからだ。同様に、引用される先行作品は、洗練の極みと言うべき作品でなければならない。
 これらの条件を、『クリスマス・テロル』はほぼ完璧に満たしている。ミステリ仕立てで批評の不可能を描く第八章までと、一転(伏線を回収しながら!)創作の不可能を描く終章。全編の下敷きにされているのは現代アメリカ文学の精髄、オースター『幽霊たち』であり、そのトリックは今でも最もエッジなミステリ、京極夏彦『姑〇鳥の夏』なのだ!
 ここまで作品の要請を作家が満たした例は、そうは見当たらない。無論、この短さも完璧だ。
 友哉たんは完璧に小説を追い詰めた。
 無論、現代に至ってさえ小説は不可能ではない。小説の行き詰まり、「結局それなんか意味あるの」を回避し、無意味な戯れの豊かさに溺れる手もあれば、社会の価値を疑わずその範囲内で有意義な議論を展開する手もある。そしてそのような形の傑作が、今現在も陸続と生み出されつつある事は確かなのだ。
 それでも。それでも友哉たんは小説を追い詰めずにはおれないのだ。それは読者への悪意だとか書き手としての倫理だとかそんなつまらない理由によるのでは決して無い。衝き動かされているのだ、彼は。そう、それこそ「本物の衝動」に。この作品に限らず、佐藤友哉の小説を読むとは、彼を衝き動かしている「本物の衝動」を体験する事に他ならない。
 読書とは、もう一つの現実をただ生きる事の謂いでもあったはずだ。ならば、友哉たんの「衝動」を我々に生きさせる佐藤作品は、まごう事なき読書体験を我々に与えてくれるのだ、と言えるのではないだろうか。
講談社ノベルス 2002年8月発行