宿題2

ここの続き。
 「ピュアな「面白さ」」ってのは多分本当に西尾維新が考えていそうな、しかも香ばしい言葉でありまして。この概念、そういう感じのライトノベラーの標語としてもおなじみであります。。例
 要は理屈じゃない面白さという事ですが、これを理屈からの引き算としてでなく捉えられるのがエンターテイナーの才能でありましょう。
 理屈とは「ジャンルの規則にしたがっている」か「人間が描けている」の二つに一つとまずは言っていい。
 ジャンルの規則に従おうとも人間を描こうともせず、それでも面白かろう展開を書く、というのが多分『フリッカー式』と『エナメルを塗った魂の比重』で佐藤友哉が目指したエンタテインメントで、これは端的に間違いです。だって理屈だもん。理屈理屈って繰り返してると気分は子規やね。
 この理屈抜きの面白さってのはつまるところエヴァみたいのって事で、そのあたりに佐藤友哉の90年代の子供性が露呈しているわけです。
 一方の西尾維新は、佐藤友哉のように理屈っぽくない。だから、人間を描く事やジャンルの規則に従う事を自分に禁じはしない。良くわかってないのですが、多分『フリッカー式』が壊れた人間云々と語られたのは、主人公の感情と事態の推移の間の相関がどちら向きにも薄かったからで、それが「人間を描かない」事だとすると、その両者が極めて強い連関を持つ西尾作品は極めて人間的である。その点では高橋さんのこの見解(微妙にネタバレ注意)に俺は賛成するものであります。
 む、話がずれた。
 笠井潔には自分の理論の忠実な体現者である清涼院流水をまっすぐには評価しようとしないようなところがあるので、そういうある種の政治性の発露として佐藤をミステリ的とせず、クリテロを評価しないんだろうな、というのが正直なところです。売文業の誇りみたいな事を言いたがる人でもありますから、あの内容は許しがたかったのかも、と。
 だから、自分で振っといてなんですが、あまり気にする必要はないと思ってたりします。
 結局西尾維新は十分に古典的で人間的だと俺が思ってるという話で、それが世評とずれているのを気にしてるわけです。